かまぼこの歴史


神功皇后とかまぼこ

 「かまぼこ」のおこりはたいへん古くはっきりとしたことはわかりません。 おそらく日本人が歴史上に現れた太古の昔からすでに存在していた魚肉の料理法であったと思われます。言い伝えとして、神功皇后が神戸の生田神社で、魚肉のすり身を鉾の先に塗りつけ、焼いて食べたのがおこりであるというような極端な話も伝えられています。

書物に出てくるのは室町時代

 「かまぼこ」が書物に現れたのは、室町時代の中ごろからです。そのころの古い書物に 『かまぼこは蒲のほこに、にせたる物なり』 と書かれてあるところから、河原に育つ蒲の穂に似ているので、「かまぼこ」と言う名が おこったのだと言われています。また、そのころのその他の書物にも蒲鉾の文字があり、このころにはすでに「かまぼこ」が作られていたことがわかります。

初期のかまぼこは焼きちくわ

 昔のかまぼこが現在の焼きちくわによく似ているということは、そのころの書物に出てくる蒲の穂に似ているという記事から想像することができます。すなわち、昔は魚肉をすって木や竹の棒に塗り、そのまま焼いて蒲の穂のようにしたのです。

板つけかまぼこは室町時代

 板つけかまぼこのおこりもはっきりとしたことはわかりません。しかし 、室町時代の古い書物に『板に付やうはかさをたかく、(中略) あぶりや うは板の方よりすこしあぶり 』と書かれており、現在の小田原の蒸しかまぼことは少し違いますが、焼き抜きかまぼことして、室町時代にはすでに作られていたことがわかっています。

蒸しかまぼこは幕末に登場

 江戸時代のおわりごろになると、蒸しかまぼこが登場します。そのころの書物には 『三都ともに杉板に魚肉を推し蒸す、けだし京阪にては蒸したるままをしらいたという多くは蒸して後焼いて売る、江戸にては焼いて売ることこれ無く、皆蒸したるのみを売る』 と書かれています。このように江戸地方では焼き板がすたれて蒸し板ばかりになり、特に、小田原式の白かまぼこは江戸好みの代表となり発展しました。小田原生まれの二宮尊徳が手土産に使ったことが江戸末期の日記に書かれています。